eineblumeのブログ

日々感じたことを記していきます

デマを防ぐには

インターネットは誰もが発信できるいう、それ以前には難しかったことができる点で、素晴らしいメディアだと思います。誰もが発信できるということは、その情報の真偽や、優劣を私たち自身が判断しなければならないということにもなります。アメリカの大統領選挙でもそれが問題になりましたし、日本の前の内閣(今のも?)のやってきたこと、発言したことも問題になりました。
何が事実で、何がそうでないのか、という判断をする力をつけるにはどうすればよいのでしょうか。「インターネットリテラシー」という概念の中に、インターネット上の情報を安易に信用するなということも含まれて入るのでしょうが、それでは、どのようにして、真偽を見分けるようにできるのでしょうか。
素人考えかもしれませんが、歴史や国語の学習が役に立つのではないかと思います。もちろん、数学や物理をはじめとする自然科学も、論理を大事にするという点では役に立ちますが、たとえば、

  • 歴史の本に書かれている事実は、どのようにして認定されてきたのか
  • 文章中で主張されている事には、確かな裏付けがあるのか。その文章の信ぴょう性はどのように評価できるのか

このようなことが、高等学校の日本史、世界史、現代国語などで扱われるようになれば、状況は変わってくるのではないでしょうか。私自身の教育を受けた体験からいえば、

  • 歴史上の事実がどのようにして認定されたのか、知りません。学習した覚えもありません。したがって、ある本に書かれていれば、それが真実だろうと考える恐れがあります
  • 文章の信ぴょう性についても学んだ覚えがありません

さらに言えば、次のような疑問があります。

  • 高等学校の歴史の授業(日本史、世界史)は中学校までの歴史の授業と本質的に違う内容にしなければならないのではないか? 歴史上の事実を習うことよりも、歴史上の事実をどのように認定してきたのか(これからしていくのか)、その方法を体験する時間にしなければならないのではないか? それによって、歴史に関するデマを防ぐためのリテラシーが身につくのではないか? 数学や理科であれば、何が正しいのか、どうやって確かめればよいのかは、不十分かもしれませんが、証明、実験、観察するなどして学びます。ところが、歴史については、どのような方法があるのかすら勉強しなかったと思います
  • 高等学校までの国語(現代国語)で学んだことは、十分に現代を生きる上で有効なのか? 何をどのようにして生きる力に結び付けようとしているのか? 高等学校の現代文の教科書に載っている文章は、通常、私たちが書いたり読んだりする文章と違っていると感じます。本当に高等学校の現代文の教科書に掲載されている文章は、読むに値するような「良い」文章なのか?

私は、高等学校の歴史と現代国語の授業は、役に立たなかったと感じています。これが誤りであることを希望しますが、実際はどうなのでしょうか。